二つの「虚構」/リズム(『ララランド』評)
あまり映画を観ないのだが、2週間ほど前にTwitterのフォロワーと会う機会ができ、せっかくなので映画を観ようと『ララランド』を観た。
観たあとになるまで『ララランド』が話題作であること、『セッション』の監督の作品であることなどは知らなかったのだけれど、率直に言って結構楽しめた。二回目を個人的に観に行ったくらいだ。
しかし、Twitterを見ていると結構賛否両論という感じらしい。否定的なものとしては、脚本やらカメラワークが陳腐、とかミュージカル理解/ジャズ理解が乏しい、とかいった意見をよく見る。
僕は映画もミュージカルもジャズも門外漢なので、その評価ついてはピンとこない。菊池成孔の本でも一冊読めばわかるのかもしれない。
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まあ、せっかく久しぶりに映画を観たので、以下に、僕が面白いと思った点をまとめておく。
当然ネタバレを含むから、気になる人は観てから読んでほしい。
「ミュージカル」の違和感
おそらくこれはある程度の共通認識のはずだが、『ララランド』はメタミュージカル映画だ。少なくとも、「ミュージカル要素を入れて、ハリウッドの夢を追う純粋な若者を追いました」みたいな愚直にハートフルな映画だとは僕は思わなかった。
先に断っておくが、そもそも僕はなんとなくミュージカルに対する違和感を持っている。なんで急に歌いだすのかよくわからないからだ。
今まで普通に筋書きを追っていたのに急に曲が始まり歌い出し、こちらはそれを登場人物の心情描写なのか何なのか「そういう表現なんだな」と思って腹の中で了解して着いていかなければならない。急に虚構の世界に連れていかれる感じというか、その「お約束」を強いられる気がして苦手なのだ。フィクションの同調圧力、とでもいうのか。
その違和感は妥当ではないのかもしれないが、『ララランド』は、そういったミュージカルが(というより「虚構」が)一種の同調圧力であることに自覚的であると思う。
一番初めの渋滞の高速道路のシーンで、ララランドの住人たちはみんなそれぞれのカーステレオで好き好きに音楽を聴いている。ところが音楽が流れはじめ、女性が歌い始めると、住人たちはみんなそれに合わせてフィクションの世界に駆り出される。
画面上には同じリズムで楽しげに踊る人々が映され、それ以外は画面から排除されてしまう(渋滞していない道路の車はそ知らぬふりで普通に走っているが)。踊っているところはまったく映らないが、セブもミアもこの渋滞に同じく巻き込まれていたはずである。
次のミュージカル・シーンは、パーティのシーンである。ミアとルームメイトたちが連れ添って楽しげにパーティに行き、「自分を見つけてくれる『誰か』」を探す。
ミアとルームメイトは初めこそ楽しげにミュージカルを演じるわけだが、実際会場についてみるとミアはそのノリにどこか違和感を覚えてしまう。それをミアは「『誰か』ではなく『私』を」探したい、と語ることで表出する。
そこで一瞬音楽はストップする。ミアは画面からいなくなり、その後でまた楽しげな音楽が再開する。
こうして見ると、この映画においてはミアもセブも、ミュージカルのシーン(虚構)であろうと実際に音楽が鳴っている場所であろうと、大勢とともにそれを同時に楽しむシーンがほとんどないことに気づく(それらしき箇所はジャズバーでセブが演奏している場面くらいか)。
どころか、この映画の主人公たちは、その鳴っている音楽とそれを楽しむ聴衆に没入できず、メタ意識=違和感を覚える描写のほうが多い。パーティでセブが80年代ポップスを演奏するシーン、ミアはポップスで踊る人々を茶化しているし、メッセンジャーズのライブシーンで戸惑うミアのシークエンスはこの「違和感」をよく表している(個人的にだが、好きなバンドのライブでも僕は「没入できない感じ」を味わうことが多いのでよくわかる)。
主人公二人が気持ちよく「虚構」の世界に没入できるのは、主人公二人の間の関係においてミュージカルが成り立っているときだけである。
つまりこの映画でのミュージカルは、主人公たちが入り込めず、違和感を覚えてしまう公的な「虚構」と、主人公たちがお互いの間だけで生成し、耽溺することができる私的な「虚構」の二つに大別できるはずだ。
セブとミアが初めにミュージカルを生成するシーンにおいて、二人はお互いのリズムを確認するかのように靴を踏み鳴らし、踊っている。そこで初めて彼らはミュージカルを生成するのだ。
さて、ここでの公的な「虚構」とは、すなわち「ララランド」全体を支配している圧力でもある。女優なり俳優なりがこの街で成功するためには、少なくとも正攻法としては「誰かに気に入られる」(パーティ)か、「誰かを完璧に演じる」(オーディション)しかない。それができない人間はふるいにかけられてしまう。道路の渋滞のように人々はずっと「誰か」が訪れるのを待つしかないのだ。
この映画は、その渋滞をいかに迂回するかを描いているのではないだろうか。
リズム、グルーヴの生成と解体
上記の問題をより端的に表す隠喩を選ぶなら、テンポ、あるいは「リズム」であろう。『ララランド』はリズムの映画である。
「公的な」虚構において、人々はある一定のリズムに合わせて踊り、ミュージカルを形成する。キメのシーンでは誰もが一律に同じ動作でリズムに合わせる。それを支配しているのは一定の社会的コード、共通言語だ。
リズムというひとつの共通言語。それに基づいて人は踊るが、そこにノレず違和感を覚える人は、つねに疎外されてしまう。
ここでセブのジャズ理解が批評的になる。セブにとってのジャズは、リズムの奪い合いであり、エゴのぶつけ合いである。これは『セッション』のジャズ理解とも通底する(僕はここでそのジャズ理解が妥当であるかはとくに問わない)。
さらに、セブはジャズを同じ言語を持たない人の間でも可能なコミュニケーションとしてとらえていた。私的なリズムの主張の相克が全体のグルーヴを生成する。それがセブにおけるジャズなのである。
ここでのジャズが『セッション』と異なるのは、『セッション』はもはや全体のグルーヴが解体されるかのようなリズムの奪い合いが主眼だったのに対して、『ララランド』はむしろグルーヴの生成の条件としてリズムの相克が据えられている点だと思う。
この映画は一方でリズムのもつ同調圧力と没入できなさ(「公的な」ミュージカル)を描きながら、もう一方でリズムの生成と没入(「私的な」ミュージカル)を主題にしている。ここでの差異は、それが規定されたものかどうかだ。
「あらかじめ」あるリズムに合わせて人々が踊るような場面は、セブにとって単なる予定調和、お約束でしかない。少なくともノレるものではない。そこにはエゴの相克がないからだ。
だからこそセブはメッセンジャーズの打ち込みのリズムに拒否反応を示すのだ。そこではもはやリズムはあらかじめfixされ、人々はそこにただ従うしかない。リズムが新しく生成されることなどないのである。
共通言語とミュージカル
このリズムの隠喩は、例えば金銭という共通言語にも適応される。セブにとっては、共通言語は規定のものではなく、創られるものでなければならない。セブの金銭、金銭目的への嫌悪感は、要するに共通言語の規定性への嫌悪感なのである。
繰り返しにはなるが、すでにある共通言語に則ることではなく、あくまで自分のリズムを創り、主張し、それが結果として全体のリズムに昇華していくことが、セブのジャズであり、生き方であった。
結果として、そこにミアは惹かれるわけだし、セブに半ば強制的に促されることによってミアは脚本を書く/一人芝居をするという自分のリズムを見つけるのである。
公的な「虚構」のリズムにノレないミアが、自らのリズムを頑固に刻んでいるセブに出会い、そこでようやく自らが没入できる「虚構」を生成する。この映画の筋書きはそのように要約できるだろう。セブとミアは二人の間でのみリズムを共有できたし、「虚構」に没入できた。
ミアは、セブのメッセンジャーへの参加を否定的にとらえる。それはセブが「他人のリズムに同調しようとした」瞬間だからだ。セブにとってはそれはミアのためだったわけだが、仮にその「他人」がミアであったとしても、それはもはやセブのリズムではない。
ここでは、セブとミアのリズムもまた、完全に一致しているわけではない点が重要である。二人は結局別れてしまうわけだし、ミアの成功とセブの成功はそれぞれ微妙に矛盾するものとして書かれている。ポリリズムのように、ずれては一致するのが二人のリズムなのだ。
二つの「虚構」/虚構としての「虚構」
この映画では、公的なミュージカルと私的なミュージカルという、二つの「虚構」が対置される。その差異はリズムの生成(「セッション」)の有無である。
この映画の面白いところは、虚構対現実という二項対立ではなく、二つの「虚構」が対置されることだ。ミュージカルの予定調和なロマンスに着いていけず、疎外されるマイノリティがいたとして、結局彼らは彼らで自分なりの「虚構」/ロマンスを生成するだけであって、それも予定調和でしかないのだ。現実はどこにもない。どこまでも相対的な夢しかこの映画のなかにはない。わりかしアナーキーではないか。
そして、最後のミュージカルシーンは比喩でなく本当の意味での虚構=嘘である。虚構として「虚構」(ミュージカル)を描いている。このミュージカルは「ありえたかもしれない」世界であって、だからこそ「ありえなかった」世界なのだ。セブがミアに着いていく未来があったかもしれないし、二人が結婚する未来があったかもしれない。だが、そうはならなかった。「ありえなかった」未来は、実に陳腐でわざとらしいドリーミーな演出で表現される。
この映画は、「いま、ここ」の現実ではなく、来なかった未来とか、ありえたかもしれない過去へと絶えず差し向けられている。女優として成功し、別の男と結婚し、子供を作った幸せ絶頂のミアには、常にセブという過去/虚構がとり憑いている。
ミアのアイデアを採用して名付けられた「セブズ」において、二人のズレていたリズムは5年ぶりに一致する。だからこそ、ここには映画内で最大の虚構が生成されてしまわけだ。
まとめ
はじめて映画批評を書いてみたら難しかったしまとまらなかったが、メタフィクションが好きな僕にとってはところどころで楽しめるフックがあり、普通に楽しめた。あと監督の若干性格が悪い目線に対しては共感した。
これは本当に余談だが、女性に向かってアツくジャズを語り「夢を叶えよう」と語り合い、付き合ったにも関わらず結局別の男と結婚されてしまうセブには大槻ケンヂ的世界観というか、サブカル男の末路を感じて他人事感がしなかった。結局こうやって思い出になるだけなのだ(ちなみに観た後すぐに持っていた感想は「これ『秒速5センチメートル』じゃん」だった)。
…まあ、だからこそこの映画に否定的になる気持ちもけっこうわかる気はする。
それにしても、監督とセブのジャズ理解を同一視するのは安易ではないだろうか。この映画は別にジャズ最高、みたいな内容ではないし、メッセンジャーズのような新しく、ポップな音楽を否定しているわけでもなかろう。そこにノレない奴もいる、という相対的な目線があるだけだ。
セブはむしろ意図的に「頑固で懐古趣味のジャズマニア」としてカリカチュアライズされていると思うから、そこは僕は特に気にはならなかった。まあジャズに興味がないせいもあるか。
さて、虚構とリズム、というテーマで長々とまとめてみたが、僕は映画のこともジャズのこともミュージカルのこともよく知らないので、結構的はずれなことを言った気はする。
もしそうだったとしたら、ぜひクールなジャズのことや、面白いミュージカルのことを教えてほしいと思っている。僕は無知だし頑固だが、セブがミアにしたように熱っぽく語られれば、ノレるかもしれない。