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大津波では救いがたい

思考の総括と分解

コンテンツの戸惑い

サブカルチャー 日記 映画

先日、友人に誘われて『ララランド』を観に行った。

 

searoute.hatenablog.com

 

それでちょっと感想を書いたのだが、結構ツイッターの方で拡散されて、わりと反響があった。おそらく今のところで5000〜6000程度閲覧されたはずだ。こういった批評としては(というか僕の記事としては)読まれた部類に入るのではないかと思う。ツイッターでも肯定的な感想を書いてくれる人ばかりで、非常にありがたい限りだ。

さて、四月に訪問者数も落ち着いてきたので、この反響について自分なりに思ったことを書く。

 

映画のコンテンツ力

まず驚いたのは、映画のコンテンツ力の高さだ。僕は今までブログでは音楽の話をよく書いていて、ツイッターではそれにプラスして思想系の話も多少している。

しかし流行りものとかアクチュアルな問題に直接触れたことがあまりないのもあって、僕の発言や記事がここまで「バズった」(当社比)ことはなかった。今までであればリツイートされてもせいぜい数十リツイートで、じわじわフォロワーが増えるくらいのものだった。零細アカウントである。

というわけで、僕が映画の話をまとまった形で書いたのはおそらく初めてだったし、公開されたばかりの流行りものとなるとなおさら珍しかった。

作家性<コンテンツ

僕の場合、コンテンツ消費に関して感じるフェチズムみたいなものは、ジャンルが違ってもほぼ共通している。我が強いと言ってもいい。

だからおそらく音楽にしても映画にしても、思想とか文学の話をしていても、僕はほとんどワンパターンな戦略で批評を書けてしまう。それは僕の文体の特徴であり、欠点でもあるだろう。

たとえば『ララランド』の話と、先日書いたP-MODELの話、あるいはニューウェーブ・パンクの話も、よくよく読むとほとんど同じ部分に着目しているはずだ。差異、虚構、批評性…そしてそのどれもが、手垢のついた概念だ。

当然僕の作風に着目して読む読者はごく少ないので、「反響」という形になって現れるのは、その批評対象のコンテンツ力に依存される。それはわかっていたし、後述するがそれを意識して僕は『ララランド』評を書いた。とはいえ同じ話をしているのにここまで差が出るとは思わなかった。

というか、ネット記事としてはかなり長く、文体も堅いあの文章が普通に読まれるのがそもそも変に感じる。あの記事は『ララランド』を観ていない人にさえわりと読まれた。

あんな長い文章、僕なら読まないし、僕でなくとも仮に自分の興味のない話(たとえば聞いたことのない音楽のレビュー)なら読まないだろう。だが、人は自分の興味のある話になると途端にそのハードルを突破するのだ。当然のようだが、なんだかその差が恐ろしい。何らかのリビドーなんだろうか。コンテンツの魔力だ。

とにかく映画はすごいのだ。資本主義の最先端である。シンゴジラも新開誠もウケて当然だなと思った。

…ともかく、僕の実感として、「いつもと同じ話をしていたのに急にウケた」みたいな戸惑いがあったのは否めなかった。

「読まれる」こと

映画批評については疎いから内容的に十分とは自分では思わなかったし、反論されてもおかしくないなと思っていた。ただ、確かに「読まれる」ことに関してはわりと意識的に書いたと思う。長い段落の後には要約を挿入したし、おそらく人は読み飛ばすだろうから『秒速5センチメートル』みたいな目につくわかりやすい単語も入れた(実際それに対する言及が多かった)。

普段からそういったことは意識しているが、今回はとくに読まれやすかったのかもしれない。考えていることを素直に書けばもう少し長く堅い文章になったと思うが、この記事ではそれを全ては書かなかった。

『ララランド』評以前に書いた文章では、僕は80年代ニューウェーブにおいて、ポップスが着ていた衣装と身体がずれていくような、そう言った奇妙な転倒を描いた。つまり批評の段階において、僕たちは大衆的に見えるものの中にこそある種のズレを発見することができるという話で、一種の虚飾だが、僕の文章もまたそういう風にできている。

 

searoute.hatenablog.com

 

だから、「読まれた」からと言って、僕の批評が十分理解されたかといえばそうでもないと思う。エゴサする限りだが、僕の記事を読んだ後の感想はほとんど好意的なもので、要約すると「自分の言いたかったことを代弁してくれた」とか「腑に落ちた」という感想が多かった。そこにも僕は戸惑った。

実際、核心部を直接には書かなかったのだから読者全員にその意図が伝わらないのは当然で、それ自体は特におかしいとは思わない。僕の個人的な友人にはその意図は伝わっていた。文章は不都合なメディアなので常に書き手の意図が伝わるとは限らないし、今回の場合はなおさらだ。おそらく僕の文章もまた、映画に付随したコンテンツとして消費されるだけだろう、というアイロニーもあった。

アイロニカルな『ララランド』

あの『ララランド』評は菊地成孔の批評に対する当てこすりになっている。さらに言えば何かを消費したり批評したりする行為自体のメタ批評になっている。

菊地成孔の『ララランド』批評、すなわち「良い映画」とか「悪い映画」 、「深い理解」 とか「浅い理解」を区分するやり方(要するに作品の良し悪し、ヒエラルキーを想定するやり方)は、それが尺度として妥当に見えても、結局のところ単に書き手自身が生成している虚構なのだ。

いくらジャズマニアやシネフィルが『ララランド』を「浅い」と批判しようが、それは彼らの間でしか通用しない尺度だ。共同体が移動すればそこにはまた別の尺度があり、価値は相対的になってしまう。我々はある種の虚構的なタコツボの中にしかいない。

このような批評の相対性そのものは別に僕自身が強く主張するところのものではない。というか、ある程度当たり前であり前提になるようなレベルの話だ。僕たちはそれを了解した上で、それでも作品に良し悪しの判断を下す。

が、『ララランド』がすでに、その作品内において相対性を孕んでいるとしたら、話は変わってしまう。つまり、『ララランド』を批評しているつもりの我々が、他ならぬ『ララランド』に批評されていることになってしまうからだ。

『ララランド』を観て「自分はミュージカルが好きだから、『ララランド』のミュージカルに対する微妙な態度にはハマらなかった」と言ったとしよう。しかし、そのハマる、ハマらない、という事態そのものをすでに『ララランド』は了解している。

我々がこの映画に抱く個々の感想は、他ならぬ映画自体によって相対化されてしまう。「リズム」の隠喩を登場させたのはそこを明確にするためだ。ノる人もいればノらない人もいる。とそう平然と映画そのものが言ってのけてしまう、そういう恐ろしさを僕は『ララランド』に感じたのだ。

僕の評論の核心部は、こう言ったタコツボ化自体をテーマにしているのが『ララランド』ではないのか、という発想だった。『ララランド』を批評する人間を『ララランド』を用いて批評したわけであって、端的に言ってちゃぶ台返しである。僕の評論は『ララランド』自体というより実際は『ララランド』が批評される場についての批評であり、批評の批評なのだ。

それに気づいた読者もいたはずだ。少なくともあの評が、単純なミュージカルの虚構性の話ではないくらいは、普通に読んでもわかったのではないか。

コンテンツの戸惑い

菊地成孔がどこかで「ネットのおかげで批評は良くも悪くも万人のものになった」と言っていた。菊地はそれを「ネットのもたらした功罪における罪の部分」と言っていた。僕はその洞察は正しいと思う。

もちろん、そのネットのおかげで僕は批評を書けているわけだから、僕はそれを完全に罪とも思わない。菊地の世代はともかく、僕たちの世代はそういう環境を肯定的に受け入れなければいけないと思うし、これからも僕は「ネットのおかげで」批評を書いたり読んだりできるだろう。

しかし、この環境ではおそらく、ポップなものはポップなものとして、実に健康に消費されてしまう。批評の批評は単なる批評になってしまう。それは全肯定できない気がする。僕は一見ポップに見えるものの中にアナーキーなものを見出すこと(あるいはその逆)、もう少し言えば読まれる環境を変容させることが批評だと思っているのだけど、この状況下では批評は、盛り上がっているコンテンツをより盛り上げる潤滑油にしかならないし、場を変容させることが難しいと思う。大衆的なものは単に大衆的なままで素通りしていく。僕の批評も、おそらく非常に都合よく読まれている。

おそらく映画という一大コンテンツにおいては特にそう言った側面が大きいのだろう(だからこそ僕は今回戸惑うことになった)が、ただ素晴らしいものを素晴らしいというだけなら批評は別にあってもなくてもいい。そんなの見りゃわかるんだから。

僕は「貴族的」な批評——すなわち「善い感性/悪しき感性」を区分するような古い美学にもノレない。というか、普通に楽しんでいる人に向かって「お前らはわかってない」と言ったところでなんになるのだろうか。それはそれで違う。

ここからはどうすればいいのかよくわからない。ただ書くしかないのだと思う。ここで僕は「これが批評だ!」と定義することはできない。「こうあるべきだ!」とも言えない。ただ僕はここで戸惑っているし、記事はここで終わる。