大津波では救いがたい

思考の総括と分解

「正しくポップでなくてはならない」80年代ニューウェイブの奇妙な転倒

●1980年代当時、プログレッシヴな音楽をやろうとは考えませんでしたか?

 

僕自身はプログレッシヴ・ロックから影響を受けていることを恥じていなかったけど、 “ツァイトガイスト時代精神)”を理解していた。僕たちは時代と折り合いをつけながら、自分たちの信じる音楽をやってきたんだ。ギター・ソロは無しで、ドラムスは人間のドラマーが叩いていても、エレクトロニックに聞こえるようにしていた。ミュージシャンにとってのゴールはラジオやテレビでオンエアされることだった。僕たちはそのゴールに向かって、フォーマットに沿った音楽をやったんだ。(ニック・ベッグス。下線は引用者)

 

ニック・ベッグスは80年代のニューロマンティック系バンド、「カジャグーグー」のベーシストである。ベッグスの最近のインタビューからの抜粋でこの記事を始めることにする。

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(中央下がニック・ベッグス)

衣装と演奏 

さて、カジャグーグーはパンク出現後の80年代、ニューウェイブの波に乗ってデビューした。デュラン・デュランなどと同じく、見た目麗しい美少年ばかりが集ったバンドであり、俗にいう「ニューロマンティック」である。音楽に一番お金がかけられていた時代、MTVで放映されることもあってかやたらとPVにも力が入っていて、彼らはアイドル的売れ方をした。

一方でカジャグーグーのサウンドは、単に売れ線のアイドルバンド、というだけには留まらない魅力がある。ファンクに影響を受けたギターカッティング、シンセベースと同居しつつハッキリと主張するベースライン。その技巧と音へのこだわりは、80年代ポップスのお手本と言っても過言ではないだろう。シンセサイザーの音ひとつとっても単にキラキラしているだけではなく、聴覚すべてを快楽で満たさんとするかのように緻密にアレンジされている。

彼らの演奏は端的に言って「うまい」し、その楽曲は「製品としても作品としても」よくできている。

Too Shy - Kajagoogoo - YouTube

 

パンクはパラダイムシフトだったか?

ニューウェイブ系のミュージシャンは、一見素朴に見えてそのサウンドは技巧派/アヴァンギャルドであるというようなタイプは珍しくない。

たとえば、商業的にかなり成功したポリスを挙げることができるだろう。

 

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(左からスティング、コープランド、サマーズ) 

 

彼らがよく揶揄される言葉として「パンクのフリをして売れた」というものがある。まさしくそうだったのだろう。

ステュアート・コープランド(Dr)はプログレ出身で、隙あらばポリリズムを挟み込む細かいリズム・ワークは当然パンク的な単なる8ビートではない。初期ポリスのパンク+レゲエ風味はコープランドの意向によるものだったという。ジャズ畑出身のアンディ・サマーズ(G)にしても、単なるコードかき鳴らしではなく、空間系のエフェクターを多用し、アルペジオを中心としたサイケな音づくりを目指している。また後期の“Mother”のような明らかにプログレな楽曲においては、ロバート・フリップまんまのアヴァンギャルドなプレイを披露している(後に実際に共演している)。

上記二人の彼らの独創的かつ職人的なセンスに、スティング(Vo,B)のメロディセンスが加わることでポリスは広範な人気を得た。その意味で、まったく彼らは素朴なパンクなどではない。パンクっぽく見せていただけだ。

The Police - Walking On The Moon - YouTube

 

ニック・ベッグスに話を戻すとしても、彼はカジャグーグーの活動停止後ほとんどプログレ文脈で仕事をしているイメージがある。冒頭のインタビューの前編を見てみると、彼がプログレに多大な影響を受けていることが語られている。

最近だとスティーヴン・ウィルソンのソロへの参加で、マルコ・ミネマンのドラムと抜群のグルーヴを発揮していたのが、個人的には印象的である。

Steven Wilson 'Luminol' Live In Mexico City (HD) - YouTube

 

ポリスの面々にせよ、ニック・ベッグスにせよ、あるいはXTCにせよ、P-MODELにせよ、おそらくほとんどのニューウェイブ系のミュージシャンは、まず世代的にプログレフュージョン、あるいはクラウト・ロックといった実験的ロックの影響を否応なしに受けている。だからといって彼らがプログレだとは僕は思わないし、プログレが特別偉い音楽だとも思わないが、少なくともその残滓はその音楽の中で露骨である。

そんな彼らがパンクのフォーマットに従って音楽を製作していたのが、70年代後半~80年代なのである。それは、先ほどのベッグスのインタビューのなかでも述べられている。 

…1980年代にポップ・シーンで活躍したアーティストの中には隠れプログレ・ファンが多かったのですか?

 

うん、みんな先人から影響を受けてきたんだ。当時はそれを口に出すのは“クール”じゃなかったけどね(笑)。ハワード・ジョーンズはキース・エマーソンの大ファンで、エマーソン・レイク&パーマーハモンドB-3のサウンドを再現していたし、ニックはジェネシストニー・バンクスに傾倒していた。ゲイリー・ニューマンだってすべてが斬新だったわけではなく、プログレッシヴ・ロックから影響を受けていたんだ。ウルトラヴォックスのビリー・カリーはイエスのスティーヴ・ハウとプロジェクトを組んでいたこともある。みんなプログレッシヴ・ロックが好きだった。“おいぼれロッカー”を否定していたパンク・ロッカーだってそうだったんだ。ダムドのラット・スキャビーズはフィル・コリンズのファンだったよ。(ニック・ベッグス)

さて、パンク以後のこの時代に勃興したほとんどの音楽は、(ディスコやメタルも含め)産業的な面すら帯びた「きらびやかさ」を持っていた。演奏の素朴さはテクノ/シンセ・ポップのチープさと合流した。パンク以後とパンク以前で変わったのは実際的な意味としても隠喩的な意味としても衣装であり、実際のところ音楽的には陸続きである。

(一方でパンク精神を受け継いだバンド――いわゆるポスト・パンク――はアートを志向し実験音楽に接近していく。全員が楽器素人であったワイアーは、「ロックでなければ何でもいい」を標語に、2nd以降ピンク・フロイド的なアトモスフィックな方面へ舵をきってアヴァンギャルドになっていく。これはロンドン・パンクというよりはニューヨーク・パンクのアンダーグラウンドさを引き継いでいる。

practice make perfect WIRE Rockpalast 03/18 - YouTube )

 

個人的には、素朴で下手でアナーキーなサウンドこそが大衆性と結びつくというパンクの定義自体、一種の幻想であると思う。有名な話だが、そもそもセックス・ピストルズからして、彼らはパンクとしてプロデュースされ、当然スタジオ音源は聴きやすいように加工されていた。おそらく、(少なくともロンドンで)パンクは初めから単なる製品だった。他のあらゆる流行がそうであるように、パンク・ブームもまた作られたものであって、素朴などではまったくない。そこで生まれる情感もエモさも初めから譜面に書かれており計画通りである。

だからこそ、ニューウェイブよりさらに後、ほんとうの意味でのパンクとか、本来の意味での素朴さとかをとりもどそうとして、多様なバンドが現れたのだ。 

 

「正しくポップでなくてはならない」

パンクはたしかにパラダイムシフトを生じさせたのかもしれない。だが、それはパンク以前以後において、本質的な音楽的断絶を意味しない。

ニューウェイブのバンドは、パンク以前の音楽性を多少なりとも引きずりながら(隠しながら)パンクを装っていた。それはなぜかと問えばそれは当然売れるためである。ベッグスが証言する通りだ。

……が、もう少し考えてみよう。彼らはなぜパンクを装う必要を感じたのだろうか?

 

パンクで重要だったのは、それがひたすらにポップであったということに尽きる。パンクはライブハウスでみんながノレる音楽であり、真似しやすい形式であった。言ってみればパンクは一種のイージーリスニングだった。当然否定的な意味ではなく。

そう考えると、パンクが生んだパラダイムシフトとは、音楽的なものというより、そのパッケージに関する問題にならざるをえない。つまり、先ほども述べた通り衣装でありファッションである。パンクはロックの音楽性を変えたのではなく、ポップさの定義を変えたのだ。何を今さら、という話だが、これが重要なのだと思う。

パンクの影響下にあって大衆性を目指すミュージシャンは、正しくポップでなければならない。正しいポップさとは何か? すなわち、素朴であり、チープであり、アナーキーであることだ。それだけがポップである。パンクは下手でチープで、だからこそポップでなければならない。その強迫観念のもとで、ニューウェイブのミュージシャンは音楽を作っていた。パンクの磁場がここにある。パンクは強固な規範として、正しくポップであることを命じる。

 

その意味で、XTCの楽曲“This is Pop?”はその状況に対する鋭利な批評である。

 

www.youtube.com

 

What do you call that noise

That you put on?

This is pop!

 

パンク以後の音楽のなかにある奇妙なねじれの原因とは、まさにこのパンクの磁場であり、同調圧力にあった。パンクが残した爪痕は、ポップとは「素朴で」「チープで」なければならないという規範である。

この時代、ミュージシャンがポップさを目指すにあたって(それが幻想だったとしても)ある種のパンク精神(DIY)としての「チープさ」「素朴さ」を演出しなければならなかった。それがベッグスのいう「フォーマット」である。このフォーマットを外側からさらにひっくり返すことは彼らには不可能であり、その内側で、規範意識自体の解釈を変容させていったのである。

 

それはエイジアやイエスといった旧来のプログレ集団すらも巻き込んでいる。彼らは露骨にパンクに接近するような真似はしていないが、明らかにその音づくりは以前よりも一種の「軽さ」を志向していた。

サウンドの軽やかさ、チープさこそが「ポップ」の条件だったのだ。だからニューウェイブは自らがチープであるフリをしなければならなかった。この時代のもつ奇妙な転倒とズレがここにある。

 

 80年代ニューウェイブの奇妙な転倒(ずれ)

だいたい言いたいことを書いたのでこの辺で終わりにする。

90年代生まれの僕にはこの時代のサウンドのリアルさはいまいち伝わってこないし、実際の皮膚感覚的なことはわからない。

しかし、(だからこそ?)僕の耳にはこの80年代ニューウェイブが実に奇妙に聞こえる。なぜなら彼らの音楽は「やりたいこと」と「やっていること」、もう少し言うとサウンドとパッケージ、思惑と身体性がずれているからだ。

それは僕にはパンクの磁場のうちで悪戦苦闘しているように見える。正しくポップでなくてはならない状況下で、いかにポップさを批評的にとらえ、変容させていくかが、恐らくニューウェイブのミュージシャンにとって重要だったのではないか。

おそらく、冒頭で引用したニック・ベッグスのいう“ツァイトガイスト時代精神)”とは、このことを指しているのだ。

 

何事においてもこのずれの感覚を大切にしたい。